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損傷精子の状態とは?
治療現場では「頭部が楕円で元気に泳いでいる精子は正常である」という考え方が定着していますので、「運動精子=良好精子」という認識にあります。 しかし実際には、 楕円頭部の運動良好な精子の中に 、① 頭部に収納されているDNAが損傷されている精子(DNA損傷精子:正式には DNA断片化陽性精子) ② 精子形成過程で生じる頭部の中の空胞が残存している精子(頭部空胞精子) ③ 頭部に収納されている先体の構造ならびに機能が損傷されていて、受精する時に卵子に侵入することができない精子(先体異常精子) ④精子を包んでいる膜が損傷している精子(細胞膜損傷精子) ⑤運動代謝機能が異常な精子 など、多様な損傷をもった異常精子が混在 しています。 これらの損傷の状態は、 一般精液検査で用いる位相差顕微鏡では検知できない 「精子の中に隠れ潜んだ精子内部構造や機能」が損傷した 異常 の、 『隠れ精子異常』 と言っています。 精子損傷の中には、位相差顕微鏡で明らかになるような「見た目でわかる精子の外周形態」が異常な奇形精子も含まれますが、 治療対象になる不妊男性の精子損傷の大半は 、隠れ精子異常 です。この隠れ精子異常が発症する背景には遺伝子異常(先天性の問題)が関与 しておりますので、治療は難航する傾向にあります。ここに男性不妊治療の難しさがあります。だからこそ、治療開始前に、隠れ精子異常の存在を調べて事前に排除する技術努力が、治療の安全性と有効性の向上のために必要不可欠になります。
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精子DNAが損傷するメカニズムについて
ヒトの体を構成している細胞(体細胞)の一部には、アポトーシス と言われるプログラムされた細胞死があり、DNAの損傷を引き起こしますが、傷ついたDNAを修復するDNA修復機構 という仕組みが備わっていますので、すぐに修復されて正確な遺伝情報が伝達され、正常性が維持されます。このような体細胞のDNA修復機構はヒト卵子においても同様ですが、ヒト精子は造られる過程で、第2減数分裂後期以降にDNA修復機構を失いますので、このメカニズムを備えていません 。 その結果、造精機能が正常で妊孕性が認められた男性の精子の中にも、傷ついたDNAが修復されないまま残存しますので、DNA損傷精子が混在 してきます。 この特性が、見かけが元気な運動精子の中にDNA損傷精子が混在する理由です。
【重要ポイント】 日本生殖医学会において、加齢とともに1日当たりの精子の産生量(精子数)や射精される精液の量(精液量)、性欲の減少とともに、運動率や正常形態率の低下が指摘されていることから、世間一般においては、加齢により精子DNAも損傷される傾向にあると認識されています。 しかし実際のところ、不妊治療の対象になる男性(20~60歳代)の精子DNA損傷率は高い傾向 にあり、その背景には先天性の遺伝子異常が関与しているケースが多いというのも事実です。すなわち、精子DNA損傷は年齢に直結しません 。
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精子DNAが損傷していることでの妊活への影響
前述しましたが、ヒト精子においては一見 正常に見える運動良好な精子の中にも、アポトーシスが誘発されたDNAが傷ついた異常精子が修復されないまま精液中に混在してきます。 DNAがひどく傷ついた精子は受精しませんし、たとえ受精しても胚の発生は進みません。具体的に言えば、流産(自然淘汰)により命の誕生(出生)にまで至りません。 一方で、わずかな精子DNAの傷ならば、受精する機能に問題がなければ受精して発生が進みます。 運が良ければ、受精した後に卵子側のDNA修復機構が精子のDNAの傷を修復してくれますが、ほんのわずかの傷を治すのが精一杯なので、その修復が未修復もしくは不完全に終わってしまった場合には、卵子側のアポトーシス情報伝達系が活性化されて胚のDNA損傷を誘発する可能性があり、それは染色体異常に繋がります。一部は流産により淘汰されますが、一部はそのまま発育して出産に至り、出生児の健康に影響を及ぼすリスクが残ります。
【重要ポイント】 顕微授精という技術は、本来 受精すると危険な「DNA損傷が未修復もしくは不完全修復」の異常精子でも人の手を介して人工的に授精を可能にしてしまう という点では、とても怖い技術になります。同時に、顕微授精は、精子DNA損傷を含む精子異常を治す(精子の品質を補償する)ことができる技術ではありませんので、 顕微授精に用いる精子の状態によっては、生まれてくる子どもの健康への影響が生じる可能性 があります。この顕微授精のリスクも知った上で、夫婦毎に安全かつ適切な治療を選択することが極めて重要です。
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損傷精子を見分けることは非常に困難!
現行の一般精液検査では、 位相差顕微鏡で主に精子濃度(1ml中の精子数)、運動率(運動している精子の割合)、大まかな頭部形態(見た目の精子の外見的な頭の形)を観察しますが、採取の度にデータ値が変動する可能性がある こと、また、位相差顕微鏡では見えない精子の中に隠れているDNA損傷等の異常(隠れ精子異常)を検知できない こと等の欠点があります。つまり、一般精液検査から正確な精子情報を取得することは不可能 です。
精子DNA損傷のみならず、多様な隠れ精子異常が発症する背景には遺伝子異常が関与していることは既に解説していますが、これらの隠れ異常は必ずしも位相差顕微鏡で観察して判断できる「精子数の減少」や「運動率の低下」という形では表れません 。2009年には日本産科婦人科学会においても、精子数や運動率は必ずしも精子の質を直接反映するものではないとコメントしていますが、多くの不妊治療施設では未だに世界保健機構 WHOがまとめた、位相差顕微鏡で精子数や運動率、頭部形態を調べるといった、見た目だけの精液検査で精子妊孕性(妊娠させる精子力)を評価しています。
私ども精子研究チーム (詳細は、黒田IMRのホームページを参照ください) では、見た目のみならず、多様な隠れ精子異常を精密に観察するための『分子生物学的な高精度な精子検査法を』 開発しました。 精子DNA損傷を例に取れば、本法は、世間一般に出回っている色素で精子を染めてDNAの傷を判定する簡易式検査キットによるものではありませんので、正直なところ大変な手間と熟練を要しますが、DNA損傷の種類と程度をかなり正確に調べられる検査です。つまり、科学的根拠に基づいた正確な隠れ精子異常の情報を開示(把握)できる精密検査 になります。
当院での取り組み
黒田IMRの精子精密検査 では、精子DNAの損傷(DNA断片化陽性精子)のみならず、頭部に残存した空胞の存在(頭部空胞精子)、先体の損傷(先体異常精子)、細胞膜の損傷(細胞膜損傷精子 )、運動代謝機能の異常など、多様な隠れ精子異常を正確に検知することが可能 になります。
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精子詳細情報の取得が可能になることにより、精子側の視点から「治療に伴うリスク」 や、その方の「精子のタイプに合った治療技術の選定」が明確化 します。つまり「どのような治療法が安全かつ最適なのか」 という 個別化男性不妊治療プランが具体化 しますので、その後の展望(治療の見通し・妊娠の可能性)を見据えて方針を検討できるという意味で効率的 です。
ですから当院では、最初に精子精密検査を実施していただきます。その精子詳細情報を踏まえて、精子側から安全で最適なオーダーメイド治療案を設計し、院長自らが研究者としての知見と医師としての臨床経験の両方の見地から高精度な技術を提供 しています。
しかし逆に、重度な精子異常が明らかになり、精子側から「安全な治療の土俵に乗ることができない=治療断念」という厳しい結果が出ることもあります。その場合、不妊治療未経験の夫婦であったら「無治療のまま撤退(治療断念)を選択できるのか」、また長期にわたる反復不妊治療不成功の夫婦であったら「治療の打ち切りを納得して受け入れられるのか」等、思ってもいなかった事実を伝えられた場合は、例外なく混乱し、心の葛藤、絶望は想像を絶するものがあります。不本意な結果に対して夫も妻も共に納得して次の人生に切り替えるには、科学的根拠に基づいたサイエンスの観点だけでは割り切れない「心の問題」を整理する時間も必要 になります。そこで当院では、院長自らが夫婦とのカウンセリング にも十分な時間をかけて親身に対応 しています。
全ての不妊夫婦が治療の土俵に上がれるわけではありませんし、また治療の土俵に乗っても皆が皆、妊娠できる訳ではありません。この現実をしっかりと認識した上で、夫婦の強い想いや考え方を共有して、安全かつ最適な治療を選択し、上手な妊活をしてください 。
まとめ
精子の老化(精子の品質低下)に関しては、真偽のはっきりしない不確実な情報が溢れ、一般的には「精子の数が十分あり、元気に泳いでいれば問題なし」「卵子の老化と同様に、年齢を重ねれば精子も老化する」といったイメージで語られていますが、実は、そうではありません。 繰り返しになりますが、精子異常の背景には遺伝子異常が関与している場合が多いため、卵子と違って加齢の影響は低いというのが真実 です。ですから、不妊治療において、いくら妻の治療がうまくいっても、夫(精子)に問題があれば妊娠率は上がりません 。男性不妊の問題は、不妊治療において最も深刻な問題になります。だからこそ、不妊治療を開始する前の段階で精子精密検査を実施 していただき、 隠れ精子異常の存在を調べて事前に排除する技術努力が、 治療の安全性と有効性の向上のために必要不可欠 になります。