院長Q&A

『精子学』第一人者の黒田優佳子医師は どんな人?

なぜ、医師に?

小学校入学後は水泳やスキー、テニスなど活発に運動する機会に恵まれ、とても健康な体になりましたが、それまでは体が弱くよく母に連れられて小児科を受診しました。当時の私は、先生に診ていただくと元気になるので「先生が魔法使い」のように思い、「医師という仕事」に強い憧れを抱き、10歳の頃には「医師になること」が将来の夢となりました。

なぜ、精子学を専攻したの?

医学生の1980年代のことですが、当時「精子と卵子が受精する仕組み」に関する講義があり、生命誕生の神秘性に感動しました。その時の熱い想いが「命を誕生させる生殖医療」を専門にできる産婦人科医師になる決断に繋がりました。

私の出身校(慶應義塾大学医学部)では1940年代から人工授精に取り組んできましたが、私が医学部を卒業した1987年には体外受精が日本に導入され、「不妊治療」という領域から「生殖医学」さらには「生殖補助医療Assisted Reproductive Technology」という概念が確立し、不妊治療に新しい時代が来ました。

昔から「不妊は女性側の問題」と考えられてきましたので、当時から産婦人科における生殖の研究は『卵子』ばかりに目が向けられておりました。一方で泌尿器科領域では男性不妊に関わる基礎疾患(精索静脈瘤など)の研究が精力的に行われている時代でしたので、『精子』には全くといってもいいほど関心が持たれていませんでした。そのような背景の中で私は、不妊治療に携わる産婦人科医師として研究が出遅れている『精子』に着目し、研究成果を男性不妊で悩む患者様のもとに医師として橋渡しできることを見据えて、あえて『ヒト精子を対象とする精子学』の研究を志しました。

なぜ、大学院に進学したの?

医学部を卒業した1987年、当時の産婦人科医師の業務は早朝から深夜に及び、一日中 院内にいるような激務の時代でした(今では問題になるでしょうが)。手術件数も多く、医師の経験値を積むには大変充実していましたが、一方で研究する時間を確保することは困難でした。

そのような状況の中で、前述したように「ヒト精子の研究成果を男性不妊で悩む患者様のもとに医師として橋渡ししたい」という自身のビジョンに向けて、大学院への進学を決意し、研究に邁進できる環境を確保しました。

大学院時代の苦悩と喜び

当時は「精子は1匹いて元気に泳いでいれば問題なし」という考え方が今より強く定着していました。その背景が精子の研究を遅らせた訳ですが、正直なところ「精子学」を指導できる専門家が殆どいないという時代でしたので、大学院入学後の最初の苦悩は「研究指導者」を探すことでした。必死に作成した実験計画書を持参して数々の研究室の門を叩いたところ、幸運にも東京大学農学部、東京理科大学薬学部ご卒業の研究者方とのご縁をいただくことができました。しかし、やっと私の「ライフワークとなった精子学」の道がスタートした時は、すでに大学院入学後数ヶ月が過ぎていましたので、焦る気持ちを抑えて研究に没頭できるように自身を奮い立たせたのを覚えています。

その後は少人数ではあるものの「精子研究チーム」が結成され、充実した研究生活になりました。博士号取得の論文になった「受精できる精子(先体反応精子)の選別法および評価法を確立できた」ことは、「研究指導者探し」から始まった苦難のスタートでしたので、この上ない喜びでした。大学院修了後には東京大学医科学研究所で研究を邁進する機会をいただき、一貫して『安心して不妊治療に用いることができる安全な精子(高品質精子)の選別法および評価法の技術開発』を進めてきました。

そのころ1990年代は慶應医学部出身の女性医師が極めて少ない時代(一学年の5%程度)で昔ながらの男性社会が定着していましたが、当時の慶應産婦人科吉村泰典教授からは「精子研究の重要性と発展性」をご評価いただき、女性初の医長というポジションに任命いただきました。

大学初の女性医長から黒田IMR設立まで

医長就任後、私は慶大医・大学院や東大医科研で研究開発した精子側の最新技術を出身校に導入し、慶應ならではの「安全性と有効性の高い男性不妊治療への取り組み」に力を注ぎたいというビジョンを持ちました。しかし当時の男性社会が根強く残る中、また長い歴史と伝統をもつ校風もあり、プロジェクトを実行に移すことは不可能である現実に直面しました。

そのような環境で初の女性医長という重責を感じながら日々悩み苦しみましたが、男性不妊に苦しむ患者様の将来を見据えて「私自身の基礎研究に基づいた最先端の知識と技術を駆使した不妊治療を実現する場所を新たに設立する」という考えに及びました。そして2000年春 大学を去り、黒田IMRの設立に至りました。独立する決意を固めた時はそれまでの人生の中で最も強い覚悟をもった瞬間でした。その時の強い気持ちがあるからこそ今日に至るまでの約40年精子研究チームと共に基礎研究を継続することができ、その成果を日々の男性不妊で苦しむ患者様に橋渡しできているのです。

研究成果の臨床的意義について

これまで「不妊は女性側の問題」と考えられてきましたが、実際のところ不妊原因の約半数は男性側にあり、その男性不妊の大半が『精子に異常』がある造精機能障害です。つまり、不妊治療において精子異常は深刻な問題ですが、それにもかかわらず『精子に関しては真偽のはっきりとしない不確実な情報』が世間に溢れている状況です。

昔から「頭部が楕円形の精子で、元気に泳いでいれば、問題なし(運動精子=良好精子=問題なし)」という性善説が信じ込まれています。しかし実際はそうではなく、見た目が正常な運動良好な精子の中にも、見えない部分に遺伝情報DNAの損傷を始めとする多様な機能異常を持っている『隠れ異常精子』も多々含まれています。つまり、運動精子だからといって隠れ異常がないとは言えないということです。また隠れ異常の背景には遺伝子異常(新生突然変異)が関与していますので治療は難航しますが、何よりも隠れ異常が見逃された運動精子が生殖医療に用いられることは、治療の安全性と有効性の観点から あってはならない訳です。そにもかかわらず現在の不妊治療では『精子の品質管理の重要性と必要性』が見過ごされている点に大きな問題があります。

アメリカ政府によるアメリカ疾病対策予防センター(Centers for Disease Control and Prevention:CDC)は「顕微授精と自閉症スペクトラム障害発症との間に因果関係がないとは言い切れない」という見解を出し、『顕微授精のリスク』を指摘しています。

命を誕生させる不妊治療で最も怖い点は、顕微授精という技術により、本来受精しては危険である異常精子であっても人工的に受精が可能になり、生まれてくる子どもに悪影響を及ぼす可能性がある点です。つまり精子側から『健康な命』を誕生させるには、『品質管理』できた精子が用いられる(隠れ異常がないことを確認できた精子が選別される)ことが不可欠ということです。そこに着眼した黒田が、研究チームと共に一貫して『安心して不妊治療に用いることができる安全な精子(高品質精子)の選別法および評価法の技術開発』に邁進してきたことに意義があるのです。

現在の仕事への使命感について

一つ目の使命は『不妊治療の安全性と有効性の向上に寄与できる精子側の開発技術を患者様に提供し続ける日々の診療努力』にあります。
二つ目の使命は『精子側の特殊技術を医療従事者に伝授する教育努力』です。

上述したCDCの見解も踏まえ、不妊治療で生まれてくる子ども達の健常性を向上させることが急務です。医療の根源として安全確保は当たり前のことですが、命を誕生させる不妊治療においては「安全が何よりも優先」されます。不妊治療のゴールは妊娠ではありません。生まれた子ども達が心身ともに健康に平均寿命まで生きられることです。そこで精子側から取り組める安全対策として『隠れ異常がないことを確認できた高品質精子が選別される』ことが大前提であり、不可欠であるということです。

現実的な問題として、不妊男性の精子には、DNA損傷を始めとする多様な隠れ異常が認められる傾向があり、一般精液検査では隠れ異常を検知できませんので、見逃されたまま治療が繰り返されるリスクがあります。このリスクを回避するためにも、治療開始前に隠れ精子異常の種類と程度を正確に把握した上で、排除すべき技術努力をして治療に取り組むことが必須です。

治療の適正化と効率化をして、安全性と有効性を向上させるためにも、研究チームで開発した『隠れ精子異常の有無を高精度に見極める検査法』ならびに『治療に安心して用いることができる安全な精子(高品質精子)を選別する技術』が不可欠です。これらの点を周知することが急務であると考え、日々の診療以外にも積極的に講演活動を行っていますが同時に、医療従事者に技術伝授する教育義務もあるという使命感をもって日々精進しております。